安龍福“将軍”銅像及び祀堂(2004.1)
 
釜山広域市水営区水営洞
(水営史蹟公園内)
 
 
水営史蹟公園に立つ安龍福“将軍”の銅像(2001年建)
安龍福は17世紀末に日本に渡海して談判し、
鬱陵島・竹島が韓国領であることを幕府に認めさせ、
再び侵犯しないことを約束する覚書を受け取ったと主張した人物。
韓国ではこれを事実であるとし、
民族的英雄として教科書等にも登場している。
 
 
国定教科書『中学校 国史』240p
「朝鮮粛宗代には東莱に住む安龍福がここを往来する日本の漁師を追い払い、
日本に渡り我が国の領土であることを確認させたこともあった」
と記されている。
 
 
安龍福“将軍”祀堂(2001年建)
手前右側の石碑は忠魂塔(1967年建)
 
 
水営区庁が建てた案内板(以下は翻訳文)
安龍福(アン・ヨンボク)将軍祀堂
安龍福将軍は朝鮮粛宗代(1675〜1720年)の
東莱出身(現水営区水営洞付近)の漁民であり、
慶尚左道水軍節度使営の水軍である能櫓軍だった。
 
当時、倭人らが我々の鬱陵島と独島(ママ。以下同じ。)を竹島と呼び、
しきりに侵犯すると、同僚と共に日本に渡り、
鬱陵島と独島が我々の領土であることを確認させ、
日本の江戸幕府から再び侵犯しないという覚書まで受け取った。
 
安龍福は鬱陵島と独島の守護に大きな業績を打ち立て、
後世の人々によって将軍という称号を贈られた方だ。
 
将軍の業績を後世に末永く称えるため、
水営区民が意を集めて、ここに祀堂と銅像を建立し、
1967年に建立した水営公園頂上の忠魂塔を共に移転し、新たに整備した。
 
2001.3.26
釜山広域市水営区庁長
 
 
 
忠魂塔(1967年建)
碑文の文章は、朴正熙政権期に全国各地の民族的偉人の顕彰碑に
文章を書いた李殷相(イ・ウンサン)が起草している。
 
 
 
安龍福“将軍”銅像(2001年3月1日建)
銅像の後ろの碑文の内容は案内板とほぼ同じ内容だが、
最後の段落は
「日本が未だに独島が彼らの領土だと主張し、妄言を並べる現実から、
我々はこの銅像の前で将軍の精神と業績を改めて胸に刻み、
子孫に道を伝えようと思う」
と幾分過激な内容になっている。
 
ちなみに、銅像の建立を行ったのは、
発議:釜山広域市水営区
主管:安龍福将軍記念事業会
と記されている。
 
 
 
銅像の後ろにある安龍福の渡日を再現した銅板
(左) 安龍福が日本の密漁船を追い払っている(?)場面
(右) 安龍福が鳥取藩主と直談判し、鬱陵島と竹島の朝鮮帰属を認めさせた(?)場面
 
日朝の記録を突き合わせると、
完全に詐話師としか思えない安龍福だが、
日本語を操り、賤民の身分ながら
自ら海を渡って日本側と交渉しようとした行動力、
日朝双方の官憲の前で臆することなく堂々と虚偽の供述を行う度胸、
そして、結果的とはいえ、
幕府による鬱陵島渡海禁止令が出されるきっかけを作った天運など、
いずれも尋常ならざる人物であったことが窺える。
 
また、300年以上が経過した現在でも、
竹島領有権問題において安龍福の供述は、
どこまでが事実として認められるかをめぐる論争を引き起こし、
日韓を揺さぶり続けている。
 
実に日韓関係史における稀代の怪人物と言えるだろう。
 
 
 
 

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